あの地震が起きたときは、朝から東京駅近くにあるオフィスビルの会議室で仕事をしていた。
午後2時46分。
轟音とともにビルが大きく揺れる。何かに掴まらないと立っていられない。数分にわたる揺れのなかでまず思ったのは、「ついに首都圏直下型地震がきた」ということだった。
携帯電話も繋がらず、正確な情報が分からないまま会社から帰宅の指示が。仕事仲間にお互い気をつけて帰ろうと話し、1階まで階段を使って降りる。そこにあったテレビに映し出されていた映像は、想像を絶する地震と津波による被害。
「震源地は三陸沖!?首都圏直下型じゃないのか?ってことは、福島や宮城などの揺れと被害は東京より遥かに大きいのか。。。」
帰宅するにも電車は動いておらず、道路が陥没や隆起している可能性を考えてタクシーを利用せずに歩いて帰ることを決める。
ちょうどその日は仕事終わりに新宿で知人に合う予定だったが、とても行ける状況ではない。何回電話しても繋がらない。おそらく知人も同様のことをしているんだろうと思いながら、キャンセルのメールだけ送った記憶がある。
20キロ近く離れた先にある当時の自宅に向かって歩き出す。普通に歩き続ければ、4時間程度で到着するかなというくらいの気持ちだった。
しかし、歩いてみて気づいたが、都内の中心部から少し外れると築年数を経た10階建て前後の中層ビルが道路を挟んでずらりと並んでいる。そのビルの前の歩道に、多くの赤いコーンが円を囲むように置いてある。最初は何を意味しているのか分からなかったが、ビルから割れ落ちた窓ガラスが歩道に散乱しており、それを囲むように立ち入り禁止のコーンが置いてあるのだ。
歩いて帰宅する人がだんだん増えてくる、 歩道のコーンを避けるために車道に出る、履いているのはスニーカーではなくもちろん革靴、しばらく自宅で仕事ができるようパソコンや書類をぱんぱんに詰め込んだかばん。これらの影響で、思うように自分のペースで歩き続けることができない。
また、いつ余震がきて頭の上からガラスの破片が降ってくるかもしれないため、精神的にも非常に疲れる。
ビル群を抜けて、ひとまず余震がきても安全そうな道路脇のベンチで休憩。
3月とはいえ、東京も日が沈み始めると寒さがひどかった。
まだ3分の1も歩いていない。
軽く何か食べておこうとコンビニを探して入るが、肉まんやアメリカンドッグなど温かいものはすでに売り切れ。おにぎり・パンなども残っていない。カロリーで固められた非常食と、防寒用に軍手を買う。
また歩き始めるが、普段は電車で通っており、タクシーも終電を逃した深夜に使うくらいなので、自宅までの道が良く分からない。気づけば最短ルートから外れて、5キロほど遠回りする道を歩いていた。
視線を先に向けると、何やら長い行列が2本ある。
コンビニか、それとも飲食店か?
いや、ちがう。自転車屋とレンタカー屋だった。「震災が起こるとそこに行列ができるのか。。。」
限られた自転車やレンタカーを手に入れた人たちは、次々と店からそれに乗って帰っていく。
急な雨でビニール傘を買うのと同じように、まさか急な地震で自転車を買うことになるとは、それまで誰も思わなかっただろう。
列の短いレンタカー屋もあったので立ち寄るか迷ったが、私より遠くまで帰る人や高齢者、妊婦さん、体の不自由な人たちもいるだろうし、もう半分以上は歩いたということもあって、レンタカーはあきらめ残りの距離を歩くことにする。
自宅まであと5キロほどに近づいたが、この時点で21時を過ぎていた。寒さがより厳しさを増してくる。車道は大渋滞でまったく進んでいる様子はない。ふと、そのなかに都営バスを見つける。
バス停ではなかったが、ドアをノックすると開けてくれた。
「すいません、乗せてもらってもいいですか?」
「いいですよ。ただ、さっきから全然進まないので歩くほうが速いと思います」
「大丈夫です。とりあえず寒さをしのぎたいので、乗せてもらえるだけで助かります」
運転手は快く了承してくれ、ひとまず車内の椅子に座って暖を取る。
30分ほど過ぎたか。進んだ距離はバス停一つ分だが、体力は回復。
「ありがとう、助かりました。運転手さんもお気をつけて」と言い残し、再び歩き始める。
そうして自宅に着いたのは23時過ぎ。オフィスを出発したのが16時なので、7時間以上かかったことになる。
自宅に大きな被害はなかったが、棚から落ちたものや今にも倒れそうなテレビ、開いた食器棚や引き出しなどを片付ける。
テレビをつけると、想像を大きく超える、現実とは思えない被害の様子が伝えられていた。
自分自身も寒さと空腹と歩き疲れでぐったりしていたが、これでもまだ帰って休める場所があるだけ救われているんだなと思った。
10年前を思い出すと、その前後の日は何をしていたのかまったく思い出せない。でも、3月11日だけは今でも鮮明に覚えている。
きっとこれからも、自分が経験した3月11日を忘れることはない。
家族や友人を亡くされたり、自宅を失った方々も多くいる。被災地に住んでいる私の親族や友人も何人もいる。
まだその傷は癒えないなかで、当時もいまも「頑張りましょう」とか「大変だったな」とか簡単に声をかけることもできない。
自分はただ、いま生きているのは当たり前のことではないというのを胸に刻んで、そして自分は何のために生きているのかを自分自身に問いかけながら、一日一日を大切に生きるしかないと思っている。